帯まつりが

始まった理由

さらに元禄8年(1695年)から、元のご社地へ御神輿のお渡りが行われることになり、当時の代官がお祭りの時だけは無礼講を許した為、このお渡りの警護の行列がやがて10万石の格式を持つ大名行列へと発展しました。

現在でも大奴25人衆のうち4人は御神輿が出る時と帰って来た時、御神体をお遷しする際にご本殿前で左右2人ずつ向き合って神様の護衛をしています。(一般の方は見学出来ません)

一方、当時島田に嫁入りをすると、大井神社に参拝の後、新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があり、広域に拡大する町並みに困っていたそうです。

そこで当時から安産の守護神まもりがみとして信仰のあった大井神社の御神輿の行列である大奴の大太刀(おおたち)にその帯を下げて披露するようになったそうです。

やがてその帯を全国の帯業者が流行を見極めるために見物に集まるようになり、帯もますます最先端の豪華なものになっていったのだそうです。これが日本三奇祭『帯まつり』のはじまりです。

ちなみに『奇祭』と呼ばれるのは、大奴のしぐさが奇妙だからとか…。(じつは御神輿の前を歩きながらお祓はらいをしているのだそうです。)
大奴の所作は、足の上げ方、高さ、指先の動きにいたるまで厳格に今に伝え、静岡県無形文化財に指定されています。

同時に伝わる鹿島踊りは、大井神社が今のご社地にお遷しされているころ、町に流行った疫病を鎮めるためにお祀りした春日神社と一緒に伝わったもので、御神輿のお渡行が行われるようになると一緒にお供するようになりました。

鹿島踊りは千葉県房総半島から静岡県伊豆半島を中心に広く行われていますが、鹿島踊りの伝わる地域としては西限となるともいわれ、大奴のしぐさ同様、江戸時代からの動作を正確に今に伝えて、いち早く静岡県の無形文化財に指定されました。

大祭保存振興会のメンバーは会長、副会長、各街から選出された振興会役員と委員、総務、年番代表で構成され、大祭における様々な問題点や、改善点等を出し合い、より良い祭りができるように話し合いを重ねています。