帯まつりが
始まった理由

「島田宿」の成り立ち
大祭の始まりに「宿」?と不思議に思う方もいらっしゃるはずです。ここから大祭の全てが始まりました。
吾妻鏡(『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。)によれば建久元年(1190年)12月23日、源頼朝が「島田」に宿泊をされたほど歴史ある場所でした。慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制(公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のこと。)と宿駅(街道沿いの集落で、旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場のこと。)を設け島田が伝馬宿となりました。
慶長の大洪水
慶長9年(1604年)秋、未曾有の大洪水によって島田の街の大半が流され、大井神社と島田宿も深刻な被害に会いました。(このとき大井神社の石の鳥居が海辺まで流されたと伝えられています。)そこで島田の街は東北の位置にある現在の元島田に11年間ほど避難します。大井神社もすぐ隣の野田山にお遷しされます。(今でもその時のご社地にあたる静岡大学付属島田中学校の裏山の東の方には、大井の段、大段、小段、お手水ヶ谷ちょうずがやなどの地名が残っているそうです。)
そこで元和元年(1615年)、計画防災都市「島田宿」の再興と「舟形集落」(不連続堤防が一部の土地を守るのに対し、集落と耕地を堤防で大規模に囲う方法のこと。)の形成がはじまり約30年に渡り復興作業が行われ、大井神社は今の御仮屋町のお旅所の地にお遷しされます。ここは丘地で松の樹厘林をなし、大水害の時にも被害を受けず安泰だったのだそうです。
御社地の移転
それから約70年後、江戸幕府の参勤交代制度、川止め制度等の恩恵により、島田の街並は急激に大きくなり、大井神社より西に(大井川寄りへ)民家が広がり、自分たちの生活汚水が氏神様の方へ流れるのは申し訳ないと言う氏子からの請願により、元禄2年(1689年)現在の御社地にお遷しされました。
ここにはすでに竃こう神社、須賀すが神社、祈年きねん神社、春日かすが神社(延宝年中1673~81年勧請)等がお祀りされており、鹿島踊りも奉納されていました。

お渡行のはじまり
さらに元禄8年(1695年)から、元のご社地へ御神輿のお渡りが行われることになり、当時の代官がお祭りの時だけは無礼講を許した為、このお渡りの警護の行列がやがて10万石の格式を持つ大名行列へと発展しました。
現在でも大奴25人衆のうち4人は御神輿が出る時と帰って来た時、御神体をお遷しする際にご本殿前で左右2人ずつ向き合って神様の護衛をしています。(一般の方は見学出来ません)

嫁入りの挨拶回りと安産信仰
一方、当時島田に嫁入りをすると、大井神社に参拝の後、新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があり、広域に拡大する町並みに困っていたそうです。
そこで当時から安産の守護神として信仰のあった大井神社の御神輿の行列である大奴の大太刀(おおたち)にその帯を下げて披露するようになったそうです。

帯業者がやって来る
やがてその帯を全国の帯業者が流行を見極めるために見物に集まるようになり、帯もますます最先端の豪華なものになっていったのだそうです。これが日本三奇祭『帯まつり』のはじまりです。
ちなみに『奇祭』と呼ばれるのは、大奴のしぐさが奇妙だからとか…。(じつは御神輿の前を歩きながらお祓はらいをしているのだそうです。)
大奴の所作は、足の上げ方、高さ、指先の動きにいたるまで厳格に今に伝え、静岡県無形文化財に指定されています。

鹿島踊りについて
同時に伝わる鹿島踊りは、大井神社が今のご社地にお遷しされているころ、町に流行った疫病を鎮めるためにお祀りした春日神社と一緒に伝わったもので、御神輿のお渡行が行われるようになると一緒にお供するようになりました。
鹿島踊りは千葉県房総半島から静岡県伊豆半島を中心に広く行われていますが、鹿島踊りの伝わる地域としては西限となるともいわれ、大奴のしぐさ同様、江戸時代からの動作を正確に今に伝えて、いち早く静岡県の無形文化財に指定されました。
※引用元:大井神社公式サイト「大井神社大祭帯まつり」より抜粋
島田大祭保存振興会とは
島田大祭保存振興会は、島田大祭が円滑に行われるように各街の祭典委員長や大祭の時に現場を仕切る年番部会(青年部会と中老部会)を取りまとめたり、観光課や観光協会と連携し、見に来るお客さんが満足するように大祭の進行を考えたりする組織です。
大祭保存振興会のメンバーは会長、副会長、各街から選出された振興会役員と委員、総務、年番代表で構成され、大祭における様々な問題点や、改善点等を出し合い、より良い祭りができるように話し合いを重ねています。
また、「保存・振興」という観点からは、過去の文書などを紐解いたり、学校にお邪魔して大祭のことを教えたりと、この大祭が長く続くように活動しています。 110回大祭からは昭和・平成時代と違う「令和の祭り」が行われるよう、コンプライアンスや地域住民への配慮等も考え、改革を進めています。